第9回 リデル、ライト両女史杯 熊本市老人福祉施設ミニバレーボール大会を開催しました。

歴史

ハンナリデル ~Hannah Riddell~

父は軍人、ロンドン郊外のバーネットの軍隊宿舎で出生。若き日に将来の社会事業家としての基礎となる体験をした。イギリス国教会伝道協会の伝道師を志願し、日本伝道を命じられ、任地熊本へ到着(明治24年)。ここで後に「はじめて患者を見た」とその日の感動をメモに記したハンセン病患者との出会いがあった。明治28年11月12日、日本におけるハンセン病救済活動の草分けの一つとしての回春病院を設立した。  彼女は、社会福祉の偉大な組織者であった。その大きな力によって国のハンセン病対策の具体化にむけて寄与するとともに、救済活動の技を日本各地に伸ばしていった。また彼女は活動にあたって「分かち合い」の精神を貫いた。伝道師の役割を捨てて、患者と心身ともに分かち合うことに自らをささげた。そして先駆的なバリアフリーの実践としての病院内のスロープの設置に象徴されるように、分かち合いを具体化していった。  彼女の精神は、そのことによって当時の日本社会の中で心からの賞讃をもって受け入れられたのである。

この日初めてハンセン病者をみる

明治26年4月3日、友人となった第五高等学校の教授達に誘われてリデルは、本妙寺に 花見に出かけた、その日、空は晴渡り、桜並木の花は今を盛りと咲き誇っていたが、その 花の下に、悲惨な姿でうずくまる姿を認めたとき、彼女は衝撃をうけた。  彼女は携えて いた「日々光り」4月3日の欄外に、「この日初めてハンセン病者を見る。」と記し、こ れらの病者にたいし、政府は何の援助の協力もしない実情を聞き驚き、悲しむと共に、こ の病者の苦しみを救うことを決意する。

回春病院の設立

ハンセン病を救済するための病院をつくることを決意したリデルは、英国の親戚、友人知 人に、計画を打ち明けて賛同と援助を求めた、中には敬意をもって援助した人もすくなくな かったが、多くの者は、1外国人女性の力に及ぶことではないと反対した。みずからの使命 を確信していたリデルは、私財を投じてこの事業にとりかかった。ついに明治28年11月 12日、病院が開設した。名前は、暗黒の人生に再び希望の春を回り来させることを念じて、 回春病院と命名された。

国を動かした演説

明治38年、日本は日露戦争で大国ロシアに勝った。今まで英国でリデルの慈善事業を応援 していた人達が、「日本は強国になったので今後は応援する必要はない」と送金が中止された。 リデルは非常に困り、時の総理大臣大隈重信に、援助を求めた。大隈は渋沢栄一と相談して、 日本橋の銀行会館で、画期的なハンセン病救済講演会が開かれた。出席者の中には、大隈伯爵、 清浦子爵、渋沢男爵、島田三郎、頭本元貞、内務省からは、窪田衛生局長などがおり、三井、 岩崎、古河、大倉等の富豪の代表者も見えた。この時、リデルは、「日本が駆逐艦一雙の費用 を転用すれば、この国のハンセン病問題は解決する」と提言したことは有名である。ついに、 これが動機となり明治40年、らい予防法の発布となった。

納骨堂

昔のハンセン病患者は、その病のために世間から圧迫され、嫌悪され、唯一の安息所である 実家にさえ再びかえることを許されなかった。しかもこれらの病者を出した家庭ではこれを 一門の恥とし、世間に隠し、もし病者が永眠したときでも、遺骨をその家庭に入れることは 許されなかった。「私が死んだら遺骨はどうなるのだろう?」患者の声は、悲痛だった。リ デルは、これらの遺骨を葬るべき墓地を院内に設立しようとしたが、法律に抵触し許可がお りず、それに変わる納骨堂の建設が施工された。これを見た患者達は歓び「これでもう思い 残すことはない。私達は自分の家庭から見捨てられたが、私達の友と一緒に永遠に、安らぐ 場所が出来た」といった。ある方がリデルに案内されて納骨堂を参観したとき、中央の正面 に空位があったので「ここは?」と聞くとリデルは「私の骨を納める所です」と答えた。ラ イトの遺骨も又ここに納められている。

日時計

大正13年東宮殿下御慶事に際し、銀杯、金一封の御下賜をうけたリデルは、この栄光を永 久に記念するため一基の日時計を建設した。「日々の糧」運動回春病院の患者と、院外多数の ハンセン病患者に光明を与えんとするリデルの事業に、多額の費用を要したことはいうまでも ない。病院に基本財産があるわけでなく、ただ友人知己の同情と、その援助にのみ頼った病院 経営にリデルの苦心はじつに甚大なものがあった。ある御婦人が御自身の誕生日を記念せんが ために病院の食費に1日分を、今後永久に負担しようと御発議されたところ、御友人の方々が、 結記念日、お子様の誕生日、又は、長上の御永眠の日など特別の意義を有する日に1日又か数日 の食費を負担しようと御同意くだされたので、「日々の糧」リ-グなるものが成立した。

院外活動

群馬県草津温泉は古来万病によく、皮膚病に特効があると伝えられていたので、西の有馬温泉 と共に日本の代表的温泉として著名であった。不治の病といわれ、天刑病とさえ称されて世人 に嫌悪され、日夜悩んでいるハンセン病患者達がこれを聞き漏らすはずがない。一縷の希望を 抱き、当時交通の不便な草津へ徒歩で、あるいは馬で、多数の患者がやってきて、その数は数 百人にも及び、一集落を形成するに至った。彼らは病を治し、苦しみから逃れんがため努力に 努力を重ねたが、その期待は裏切られ、彼らが最後に到達したのは自暴自棄であった。彼らは 酒を求め、賭博に耽り、あらゆる罪悪が至る所で行なわれた。このようにして草津湯ノ沢は暗 黒の巷と化し、警察当局も策の施しようがなかった。しかし、彼らをこのような境地に落とし たものは、彼らが感染した病であって、その病を持たなかったら、善良で幸福な国民なのである 。リデルは、彼等の実生活を視察しようと、明治33年姪のライトと牧師を伴い草津の赴いたが、 リデルの眼に映った実情は、想像以上のものであった。リデルはその悲惨な有り様をみて泣いた。 そして祈った。自分はハンセン病患者に光明を与えようと熊本回春病院を創立したが、収容した 少数の病者だけでなく、日本国内に散在する数万の哀れな人々を肉体的にも精神的にも幸福にし なければならない。自分は特にこれに当たるべく選ばれたのだから、熊本からは遠隔の地であり 交通の不便な所ではあるが、万難を排して目的を達成しなければならない、と決心した。リデル は回春病院付き米原牧師を草津に派遣した。米原牧師は松村館に投じて直ちに病者慰問に着手し たが、人々は、病者の客引きに来たものだと曲解し、それを触れ回ったので、講演会の会場さえ 提供するものがなかった。これを伝え聞いた一人の病者M氏は周囲の反対を押退け己の居室を講 演会その他のために開放した。米原牧師はM氏の居室を本拠として、しばしば集会を催し、個別 に慰問した。旅館側の妨害と、ある村民の激しい迫害のうちにも、慰安に飢え、愛に渇いた多数 の人々は、教えを聞こうと競って集まり、遂には1つの信仰団体が組織され「光塩会」と命名さ れた。文書で絶えず草津在住の病者達に精神面の修養を促し、あるいは物品を送って慰安を与え ていたリデルは、大正3年M、Kの両氏を同地に派遣、両氏が滞在した1カ月余の間に、熱心な 祈りと努力により人々の生活は一変した。感謝と賛美の声が至る所で聞かれるようになった。リ デルの誠意は遂に理解され、猜疑は転じて感謝となった。たまたま群馬県警察部長が草津を視察 し、同地の状態の異常な変化に驚き、官憲の力を以てしても改善出来なかった、人々の日常生活 を、このような状態まで向上させたリデルの感化力と、その派遣教師の熱意ともに賞賛の辞を惜 しまなかった。ミス.コ-ンウオ-ル リ-は大正5年この地に居を定めて病者の友となった。 リデルはコ-ンウオ-ル リ-の高潔な人格に惚れ同地における総ての事業は、コ-ンウオ-ル リ-によって経営されることとなり大正5年5月リ-女史によって聖バルナバ医院が開設された。 もっと詳しくお知りになりたい方は、こちらまで。

グレイス・キャサリン・ニール・ノット ~Grace Catherine Neil Nott~

リデルと一緒に日本に伝道に来た1人 一緒に熊本に赴任し、リデルと同じ家で生活し、共に回春病院を 創設した同志。リデルが土地の購入にあたり、費用で困りノットに相談したところ、彼女 は直ちに英国の親元へ打電し必要な費用を用意した、それゆえ後年児童グランドを開設の 折り、その名称を「ノット記念児童グランド」と命名してはとの検討もなされた。夏目漱 石とも書簡のやり取りをする間柄であった。  ロンドンに帰国した後でも、1937年に作成した遺言状の中で、回春病院に寄付をするよ うに取り決められており、彼女の愛情がいかに永続的なものかが理解できる。ノットの家 系は、海軍将校と聖職者が多く、先祖には清教徒革命のクロムウエルをもっている。

エダ・ハンナ・ライト ~Ada Hannah Wright~

ハンナ・リデルの姪であるエダ・ハンナ・ライトはスイスで教育を受けた後、1896年叔母リデルのいる日本渡った。伝道師として水戸等で奉職後、1900年からリデルの事業を援けるために来熊した。  彼女は、リデルが生涯をささげた回春病院の唯一の後継者であった。リデルの心をのみ継承することを心がけ、常に患者に対して細心心配りをして、「患者のそばにある人」として病院内に居住し、そのやさしさは人々の心からの感銘を与えた。  太平洋戦争は、ライトの思いを越えて病院の運命を大きく変えた。昭和16年2月3日病院は強制解散となった。その日ライトは「政府は私から愛する患者を奪い去った。病院は空っぽになった」とその悲痛な思いを記している。  戦後ライトは再び来熊。不自由な生活の中でも、信仰にささえられながら患者とその子供達との生活を喜びをもってすごした。このライトの日本への帰還こそ、リデル、ライト両女史の精神がこの地に福祉事業の火を絶やすことなく継続させる原動力となった

暗黒の時代

昭和の初頭から軍部によって日本は、次第に戦争へと引っ張られていった。諸外国との国交 関係が険悪になるにつれて、次第に送金が減少、病院の経営に多大の支障を生ずるにいたり、 ライトは日夜心を悩ませた。

スパイ容疑

戦争の影が、忍び寄り、ライトの周りにも変化が起こり始めた。特高刑事により、日々の監 視が光っていた。手紙は、開封され、検問され、戦争間際では、刑事が常時泊まり込み、軟 禁状態であった。訪問者との面会も、刑事立合いの下にだけ認められ、英国人のお客でさえ、 日本語以外の使用は禁じられた。又、寄贈を受けた高級ラジオは、外国からの秘密通信を聴 くためのものとして没収された。

解散への道

ライトのただ1つの願いは、リデルの心を心とし、その事業を継承することにあった。ライト にとって、第2次大戦開始以降、病院に対する内外からの重圧のため、病院経営が極度に困難 になった時、その苦悩は、名伏し難いまでになった。1940年(昭和15年)飛松氏が、ライ トの身代わりに警察に拘留され、それを知ったライトが、自分を留置して欲しいと警察に申し 入れたが、聞き入れられなかった。銀行関係の書類は押収され、年末の支払も出来かねる状態 になってしまった。評議会が、開かれ、戦争のため諸外国からの送金が絶え、これ以上病院を 経営することは困難であり、ライト女史にもスパイ容疑がかけられ、身辺に圧迫が加えられい るので、病院を閉鎖するより他に方法はないという結論に達した。

解散の日

解散の事は、患者さんへの動揺を最小限にしたいという考えから、1941年(昭和16年) 2月3日まで、伏せてあった。(その日は、リデル9年目の命日であった。)当日の目撃者で ある天野氏によると、解散の発表が有り、患者輸送用の車が出発しようとしたら、ライト先生 が、車の後ろに「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣き崩れてぶら下がった状態だったんです、 運転手はそれを知らず出発し始めたわけです。ライト先生のヒザは地面についていたように思 います。そしてハイヒ-ルが片方飛んだんですよ。飛松さんが車を止めて、後ろからライト先 生を抱きかかえたけれども、ライト先生が手を放そうとしなかったので、1本、1本指を放さ せている姿を見て、患者のために一生を捧げられた先生を、これほどまでに泣き崩れる状態を 作る神様の本当の思いやりはどこにあるのか、神様を恨みたい気持ちでした。そして門を離れ た瞬間に、車の中から賛美歌を歌いだして、それがライト先生への最後の贈り物だと思ったわ けです。と証言している。この日ライトは、愛用の「日々の光」に次のように記している。「 政府は、私から愛する病者たちを奪った。病院は、空になった。」

オ-ストラリアへの退去

英国大使館からの退去命令により、ライトは止む得ずオ-ストラリアに退去することになった が、宮崎博士に向かい「自分はこの老齢(71才)で日本を去るのであるから、再び日本の土地 を踏むことは望めますまい。自分はどこにいても、回春病院とその患者さんのことを1日も思わ ない日はないでしょう。そして伯母の遺骨も患者さんと共に眠っているのですから、もし自分が 彼の地で世を去ることがあれば、遺骨は必ず日本におくりますから、どうぞ皆と一緒の処に眠ら せてください。」とそれだけを願われた。

皇太后からの手紙

昭和16年4月1日、神戸港出帆予定の東京丸船上、オ-ストラリアに退去しようとするライ ト宛に、皇太后陛下より電報が寄せられた。追われるようにして国外に退去しなければならな かった時、皇太后陛下より同情あふるる一電文は、ライトにとってなによりの慰めであった。こ の赤紙のついた電文を、ライトは終生肌身はなさず持っていた。この電報は東京丸船上のライト に対する待遇を一変させた。

私はパ-スの市長です

ライトは、オ-ストラリア当局に対し、日本への出国許可を繰り返し求めていたが、そのつど 却下された。「ある日ドアをノックする人があるので出てみると、見知らぬ紳士が立っていま した。ライトが、失礼ですがどなたでしょうかとたずねると、「私はパ-スの市長です。あなた は、私があなたの渡日の許可願を何度却下しても、またすぐ出願なさる。失礼ですが、ひょっと すると頭がおかしくなっておられるか、そうでなければ、よくよくの事情がおありなのかもしれ ないと思い、それを自分で確かめたいと思って参上しました。私が許可できない理由は2つです。 第一は、あなたは余りにも高齢です、そのあなたが、だれひとり身内のいない異国に、単身渡ろ うとなさるのを、そのままにできない私の気持ちは、お分かりいただけると思います。第2の理 由は日本の治安がよくないことです。一応戦争は終わりましたが、オ-ストラリアと日本はお互 いに敵として戦って参りました。日本の人達がよく思わないのは当然です。かよわい御婦人、し かもご高齢のあなたが単身敵地に乗り込んでいこうとなさるのを、市長として許可出来ません。」 ライトは、確かに私は年をとりましたけど、まだ身の回りのことは自分で出来ます。私の生き甲 斐は、日本の愛する患者さんの側で生活することです。あの方々と離れて生活することには意味 は有りません。どんなに歳を取ろうと、動けなくなろうと、私は日本に帰って土になろうと、患 者さんの所に行きたいのです。第2の理由に対しては、日本人は絶対に私に危害を加えないこと を信じています。しかし、たとえ日本に上陸第1歩で殺されたとしても満足です。そこまで言う と、市長さんは、分かりましたと言って、その場で許可をくれたそうです。

再来日

ライトが熊本市民の熱狂的な歓迎を受けて、熊本駅に降り立ったのは昭和 23年6月11日のことであった。このことは市民と全国のハンセン病患者だけでなく、等し く全国民に、衝撃をあたえた。 78才の高齢、しかも寄るべくもなく単身、追放を命じた国に、 ただただ愛する患者さんのもとへ、海山千里をこえて、帰って来てくれたのである。ライトを、 感動なしに迎えることは、誰にも不可能であった。

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