降臨教会礼拝堂

リデルライトホームと降臨教会

回春病院からリデルライトホーム、そして降臨教会を含む歴史は、今年115年を迎える。 この歴史は概ね4期に分けられる。

ハンナ・リデルの回春病院の創設からエダ・ライトの時代に終焉を迎える第1期、明治時代 に始まる「らい予防法」による隔離政策と相容れない、福音の業として創設されたことから こそ顕彰に価いし、我々の事業にその精神が引き継がれるべき栄光の時期である。「らい予 防法」と相反する隔離なき事業であり、戦前敵性国家としての英国系の経営であったこと により、昭和16年2月3日国家施策によって回春病院は潰されてしまった。

第二期は、回春病院の患者を九州療養所に強制的に移し、エダ・ライトを国外に追放した後 に、戦後昭和45年まで管理の主体となった「らい予防協会(藤楓協会)」による事業の時期 である。

この時代には、養護施設及び養老院を含めた事業が行われた時期である。なおこの時期に 戦後帰熊したエダ・ライトは生涯を終え、また、「黒髪小差別事件」が起こっている。

そして第3期は、昭和45年「らい予防協会」がこの地の土地処分を行い、経営から撤退して、 リデルライト記念老人ホームが独立した法人として、養護老人ホームを経営した時期である。 次の時代へ忍耐をもって引き継いでいく時期であもあった。

第4期は、平成3年に始まる現在のリデルライトの時代となる。高齢社会の中で、新たな介護 と福祉の総合ケアユニットモデルを追及して、地域への事業展開を続けている。その中心に 110年記念事業として降臨教会礼拝堂が再建された。

リデル、ライト両女史の創設の精神、根幹にある福音の業の具現化を、教区との協働の中で 一歩づつ歩みはじめたところである。我々は、歴史の顕彰されると同時に、新たな時代へ 継承される活力なしに語ることはできないと考えている。

降臨教会の歴史

回春病院は、ハンセン病によって、どこにも救いのない病者たちが救いを求めてやってくる 唯一の場所であり、ミス・リデルは回春病院創立と共に、希望と平安を与えるために、仮礼 拝堂創設し、礼拝と聖典を行ってまいりました。

ミス・リデルは1924年12月(大正13年)、創設当初から待望してきた礼拝堂造りを開始しま した。設計図はミス・リデルによって和洋折衷式に造られ、内部の構造から採光、通風に至 るまで、点検と監督に、直接ミス・リデルが携わりました。

正面入り口は車椅子で入れるよう、ゆるやかなスロープが設けられ、今のバリアフリーの先 駆的なものでもありました。入口の上部に「我が家は、祈の家と称へらるべし」(マタイ福 音書第21章13節)と彫刻して掲げてあります。

1925年6月24日礼拝堂は落成され、アーサー・リー主教によって礼拝堂聖別式が執行されまし た。こうして回春病院内に降臨教会が併設されることになりました。

ミス・リデルは「神様がわたくしの多年の祈りを聞きたまい、日本及び欧米の主にある信徒の 潔い献げものを祝し、この聖堂を与えたもうたのです。私はその信ずる宗教のいかんを問わず 、希望する病者を喜んで歓迎いたします。信仰は神様と本人との厳粛な魂の対決であります。 したがってキリスト教信徒でないとの理由で気兼ねしたり、肩身の狭い思いをする必要はあり ません」と述べております。

回春病院創設当初より、伝道の教役者は、ゼ・ブランドラムであり、ミス・ノット、S・ペ インター司祭、A・S・ヒューレット司祭らが働き、1895年(明治29年)宣教師として来日して いた、姪ミス・ライトが、後継者となりました。1896年(明治29年)12月25日の主のご降誕を 記念して石山文三、三井亀吉、下林モトは、ゼ・ブランドラム監督より洗礼を授けられました 。これが熊本降臨教会の草創と言えるでしょう。1897年(明治30年)2月3日ゼ・ブランドラム 監督による祝福で、教父母にミス・リデル、中村亀三郎氏が立ち会いの元、塚本万次郎の洗礼 式が行われました。日本人の聖職者中村亀三郎氏は明治29年より10年間降臨教会と関わりを持 ちました。

1906年(明治39年)5月、ミス・リデルは中村長老の後継に米原馨児を迎え、ペイン ター長老の指導の下に降臨教会の牧会に着かせました。米原馨児伝道師は専任教役者となった 初めの教役者で、1906年(明治39年)7月から1910年(明治43年)まで勤め、この間に執事とな りました。米原執事は司祭となり、1912年(明治45年)1月、降臨教会牧師として再任し、1921 年(大正10年)8月まで働いた。米原司祭の牧師赴任によって病院内の伝道がいっそう進められ ました。柴田太郎伝道師が米原司祭の下で1916年から働き、米原司祭の後任として山田安間司祭 が1922年から1924年まで、その後飯島勇馬執事、荒砥啄哉示唆、乙部勘治司祭、春山三彦司祭、 長滝谷春子伝道師、乙部康子伝道師らが働き、1939年(昭和14年)春山司祭逝去後、豊福浪雄司 祭が延岡から赴任、1941年(昭和16年)2月3日、官憲の圧迫により光栄ある救癩の使命のために 尽くした回春病院が閉鎖の止むなきに至るまで、ミス・ライト院長と苦闘を共にし、スパイ容疑 で終戦前しばらくの期間拘束されていた。病院の閉鎖と共に降臨教会もまた解散、信徒らは国立 恵楓園に移されていった。それより先、石山、三井、塚本は1897年(明治30年)3月21日、エビ ントン主教より信徒按手をうけ、いよいよ信仰の道への堅信を新たにした。

 邦人としては有馬丑吉伝道師、伊熊槌之助伝道師、中村亀三郎司祭、副島虎十伝道師、本田清 次伝道師、植田方直伝道師らが関係を持ちました。

参考文献

九州教区歴史編集委員会編(1980年発行)『日本聖公会九州教区史』日本聖公会九州教259-261pp
日本聖公会菊池黎明教会(1992年発行)『れいめい~暁を待つ人びと~』日本聖公会・菊池黎明教会77-83pp
徳田その(1985年発行)『主の用なり 故司祭バルナバ徳田祐弼 遺稿・追悼文集』67-68pp

司祭:李浩平

礼 拝

場 所降臨教会(熊本県熊本市黒髪5丁目23-1)
日 時毎週火曜日 17:00~、18:00~
第2日曜日 みことばの礼拝 9:00~
第3日曜日 聖餐式 9:00~
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