熊本日日新聞 平成5年4月より25回連載
小笠原嘉祐 著
デザイン・イラスト 坂口 芳枝
【長く培われた絆】
今日もKさんは日が暮れると、表面がひび割れ変色したなじみの革カバンに、大事にしている物を押し込んで
外出する。十年前に長く勤めた会社を定年退職した。律儀な性格で仕事ぶりは実直、残業で夜遅く帰る生活を
続け、惜しまれながらの退職だった。最近Kさんは、まるでまた会社に通いはじめたかのように外に出る。そ
して奥さんがつかず離れずについていく。一時間以上歩き周ったところで、奥さんは「今日はもう帰りましょ
う」と促す。歩き続けた後だからKさんは納得してうなずき、一緒に家に帰っていく。奥さんはKさんを決して
責めもしないし、間違いの指摘もしない。結婚したときと同じように今も、Kさんの思いのままの生活にいつも
寄り添っている。先日奥さんが二週間入院した。Kさんは老人ホームのショートステイに預けられることになっ
た。入所の日から、住み慣れたわが家と違う立派な建物、長い廊下に混乱してしまったKさんは、自分の居場所
を見つけようとするかのようにさまよい続けた。足がはれても歩き続け、夜はなかなか眠ろうとしない。見ず
知らずの若い女性職員に裸を見せるのはとても屈辱的と、入治するのも嫌がった。二週間後、奥さんは退院し
た足でKさんを迎えにきた。「迷惑を掛けましたね。もう私は良くなったから-緒に帰りましょう」。その夜か
らKさんの外出はまた始まるのだろう。奥さんがその後に連れ添う、いつもの生活が繰り返される。それでも二
人の間に長く培われた絆(きずな)は、Kさんの心の混乱を少なくし、気持ちを穏やかにさせてくれる。少し疲
れの見える奥さんの様子を見かねた周囲の人に、「どこかに預けたら」と勧められるが、奥さんは決して意固地
になっているわけではなくて、人から言われるほど夫は変だとは思えないし、何とかまだやっていけると思って
いる。それでも奥さんはきっと疲れ切ってしまうこともあるだろう。その時には一週間くらいショートステイ
に預かってもらって、休みながら何とか今の暮らしを保ちたいと思っている。そして時にぐらつく気持ちをち
ょつぴりリフレッシュして元気を取り戻しながら、これからも夜の散歩に付き合うつもりでいる。Kさん夫婦に
比ペ私たち団塊の世代は、一人ひとりが個人の生き方にやや過剰にこだわる傾向がある。そんな私たちの老後に
はどのような「分かち合い」のやり方があるのだろうか。
熟年スケッチより・長く培われた絆・他32話
2001年9月発売!!
小笠原嘉祐 著
発行:ジョイ・クリエイティブ定価1,000円
【は じ め に 】
ひと昔前にはかなり敷居の高かった精神科も、現代のストレス社会を反映してか少しだけ身近な存在になってさました。
精神科の医師であり臨床心理士である私が、RKKラジオで「小笠原的おしゃれにココロジー」という番組に出演し、毎週
一回、視聴者の皆様におしゃべりでさるようになつたのもその現れでしょう。さて、人間は複雑微妙なココロを持つ不
思議な生さ物です。しかも、ココロは時としてカゼを引いたり熱を出したり、複雑骨折をしたりします。困ったことに、
即効性のある熱冷ましやセキ止めや湿布薬がないことも多く、本人も苦しいけれど周囲はそれ以上におろおろと困惑する
ケースも少なくありません。こう書くと、話がどんどん重くなるのでそれは別の機会に譲るとして、ここでは、人間の
日ごろの行動や何気ない仕ぐさを観察しながら、「人間の不思議な一面や心理の奥底をちょつと探検してみましょう」と
いうのがテーマです。ラジオの話を加肇・修正し、易しい人間ウォッチング、マンウォッチングの初級入門書をめざしま
した。自分を含めた人間を考えるヒントとして気軽にお読みください。
発行 リデル・ライト両女史顕彰会
定価500円
2000年(平成12年)2月26日、リデル、ライト両女史顕彰会と社会福祉法人リデル、ライト記念老人ホームは、回春病院第
2代院長であったエダ・ハンナ・ライト女史の昇天50年祭を行なった。2001年にはリデル、ライト記念老人ホームの創立50
周年、さらに2002年にはハンナ・リデル女史昇天70年を迎える。我々の受け継いでいかなければならない先駆的な歴史のう
ち、ミレニアムをまたぐ一連の重要な節目の第一段階の行事であった。エダ・ハンナ・ライト女史は、伯母ハンナ・リデル
女史の精神をそのまま引き継いで回春病院を運営した。その人柄はおだやかで、慎しみ探かった。事ある時には常にリデル
女史の心を確かめて「伯母ならばどうするのか」を口癖にして決断をしていた。しかし一方では強い信念とともに激しい気
性が秘められていたようにも思える。このことは、昭和16年2月3日の回春病院閉鎖の折に残されたライトメモに表現されて
いる。「政府は私から愛する忠者を奪い去った。5時には病院は空っぼだ!」すべての患者さんが九州療養所に連れ去られた
夕方5時、いつもの習慣で病院を巡回していたライト女史は、誰もいなくなった病室を目の前にして、改めて激情が走り、た
たきつけるようにその気持ちをメモに残したのだと思う。失意の中で、そして開戦直前であり、ほとんどすべての英国人が
国外退去をしている中で、ライト女史は心ならずもオーストラリアに去った。しかし戦後ライト女史が再び回春病院跡地に
住むことになるとは、おそらくほとんどの人は思っても見なかったことだったろう。彼女は日本に、そしてこの地に帰って
きたのである。もう一度くり返すが「帰ってきた」のである。自分の住むべき家に、そして伯母ハンナ・リデルと愛する患
者さんが眠る納骨堂の側に…。帰ってきたという意識の強さ故に、その家の中の荒れた有様、失われた家具穎を見て、ライ
ト女史はいつになく怒りを顕わにされたという。彼女はすでに78才だった。ライト女史は帰国するにあたってオーストラリ
アのパースで「日本の土になるために帰る」のだと彼女の決意を述べている。この逸話については5年前に昇天された沢正
雄先生が100年祭記念行事で行なわれた講演「ライト先生の祈りと心」に詳しく述べられ、当時の記念祭の発起人の方々に深
い感銘を与えた。熊本には数多くの外国人先駆者が来訪しているが、「日本の土」になることを決意し、この地を終蔦の地
とした人は決して多くはないことを是非錨記していただきたい。さて今回の記念誌には、その冒頭にライト女史の「遺言」
と「お別れのことば」及び「絶筆」を掲げる。特に遺言は死の一年前1949年2月に記されたものである。回春病院の閉鎖によ
って、その後リデルから継承した財産は処分されているのだが、ライト女史は意識的であるのかどうか、ともかく財産として
自分の手から離れていることについては無視している。あるいは気づいていないのかもしれない。彼女の認識では、病院が閉
鎖された後、戦争の為に日英が敵対状況になった為に追放されて一時退去したのであり、戦争後、平和をとりもどした時に最
愛のリデル女史と患者さん達のもとに帰ってきて、再びリデルから引き継いだ地に住みはじめたのである。決して引き渡され
た土地に仮住まいをしたのではない。もちろん財産処理については現在は社会福祉法人に引き離がれ、法的には解決している
のだが、ライト女史はこの遺言を通じて、この地は自分に正当に維承されつづけていることを表現したのだといえる。つまり、
リデル女史が999年の地上権ということを通じて、半永久的にこの地で福祉の先駆的実践を行なう決意を確かなものとしたこと
を受け継いで、今後その基盤をゆるがせてはならないことをこの遺言を通じてライト女史は訴えているのであり、そのこころ
を我々はきちんと受け継いでいかなけれはならない。そしてリデル女史とライト女史は、その基本にキリスト教精神、なかで
も隣人愛-「分ち合って生きることのすばらしさ」をすえて、事業を行なっていたことを明確にしておきたい。
発行 リデル・ライト両女史顕彰会
定価500円
発行:ジョイ・クリエイティブ定価1,000円
澤正雄先生は、リデル・ライト両女史の顕彰事業にとって、かけがえのない真実の「語り部」である。特に「愛と奉仕の精神」に
貫かれた女史の思い出が、先生のクリスチャンとしての信仰を横糸として織りなす綾のごとく語られる時、それは感動をもって伝
わってくる。リデル・ライト両女史顕彰会の準備をはじめる頃には思いもよらなかったほど大きな拡がりをもつ事業になった過程
で、先生こそ最大の功労者であることは否定できない。 澤先生が、ライト女史の遺言の中に記されている人物の一人であること
は私の記憶の中にあった。しかし、直接に先生との出会いのきっかけとなったのは、ライト女史との交わりの事を主として大島青
松園(ハンセン病療養所)の機関誌「青松」に先生が連載されたものを、たまたま読む機会を得たことにはじまる。「回春病院の
ことども」と題されたその連載のコピーを、私をかわいがっていただいた幼稚園の恩師市川先生から「あなたに役立ちそうだから
」といただいたことがきっかけとなった。頂度その頃、両女史の顕彰事業の準備がはじめられた時期でもあった。澤先生の想いの
中で語られているライト女史が、それまで読んだどれよりも鮮明で、そして何故かなつかしくさえ感じられた。早速、先生にお電
話をして、上京の折りお会いする約束をした。東京ではじめて直接お会いした時には、何かずっとおつき合いをしていたような気
持ちになっていた。ライト女史を介しての共通のかかわりのある親近感が、なおさらそのように感じさせたのだろう。この時に同
席したのが熊本日日新聞の丸野真司記者である。彼とは福祉の問題をとおして以前から交友があった。リデル、ライト女史の顕彰
事業をすすめるにあたっても、いろいろと相談をする機会があった。澤先生との出会いの前頃には、両女史のことを表現すること
に関して丸野氏の情熱がなかなか燃えあがらないことに、多少のいらだちが私の中にあったように思う。澤先生とお会いすること
を上有の直前に彼に連絡をした。「いっしょに会おう」 …。澤先生と話をすることで、これまで得られたことのない示唆が与え
られる予感を感じていたし、丸野記者にもおそらくそのことが伝わったのだろう。他の予定をさしおいていっしょに上京してくれ
た。ホテルの和風レストランで先生から初めて直接お聞きした話に、私も丸野記者もひきこまれ、思わず涙ぐんでしまったことが
忘れられない。「先生、是非熊本においで下さい」…来熊には先生の御身体の問題もあって、逡巡され、そして御家族の納得をい
ただくために時間を要した。しかし、何よりもライト女史の真実を伝えるためならという御気持が来熊を実らせることになった。
リデル・ライト両女史顕彰会の「発起人の集い」にお招きして、講演をお願いした。両女史への想いをふりしぼるような語りは、
参加された福島熊本県知事、永野熊本日日新聞社長、三浦文化協会長をはじめとした全員に心からの感動をよんだ。このことが顕
彰会のその後の事業、記念館の完成、イギリス大使館の全面的な協力、そしてレディー・ボイド駐日英国大使夫人の両女史伝記執
筆へ発展していく契機となった。澤先生と私とは、直接には三年のおつき合いなのに、まわりの人々からは先生との関係を「昔か
らのお付き合いでしょう」と尋ねられる。最近ではそのことを肯定することにしている。確かにそれはある意味で事実である。澤
先生も私もライト女史に抱っこされている。澤先生はライト女史が活動をしていた若き日に、そして私は戦後、ライト女史が熊本
に帰ってこられた時に・・。私達は、ライト女史を介してつながっているし、そのことを誇りと感じている。
何よりも黒髪の地にリデル女史がハンセン病救済活動の第一歩を印して青年日の今、多くの出会いの中で、ハンナ・リデルとエダ
・ライトの愛と奉仕の精神が顕彰される機会を得て、多くの人々とともにその精神を共有できるようになったことに感動を覚え、
心から感謝したいと思う。