ホーム > 歴史 > ライト女史

► 暗黒の時代

昭和の初頭から軍部によって日本は、次第に戦争へと引っ張られていった。諸外国との国交 関係が険悪になるにつれて、次第に送金が減少、病院の経営に多大の支障を生ずるにいたり、 ライトは日夜心を悩ませた。

► スパイ容疑

戦争の影が、忍び寄り、ライトの周りにも変化が起こり始めた。特高刑事により、日々の監 視が光っていた。手紙は、開封され、検問され、戦争間際では、刑事が常時泊まり込み、軟 禁状態であった。訪問者との面会も、刑事立合いの下にだけ認められ、英国人のお客でさえ、 日本語以外の使用は禁じられた。又、寄贈を受けた高級ラジオは、外国からの秘密通信を聴 くためのものとして没収された。

► 解散への道

ライトのただ1つの願いは、リデルの心を心とし、その事業を継承することにあった。ライト にとって、第2次大戦開始以降、病院に対する内外からの重圧のため、病院経営が極度に困難 になった時、その苦悩は、名伏し難いまでになった。1940年(昭和15年)飛松氏が、ライ トの身代わりに警察に拘留され、それを知ったライトが、自分を留置して欲しいと警察に申し 入れたが、聞き入れられなかった。銀行関係の書類は押収され、年末の支払も出来かねる状態 になってしまった。評議会が、開かれ、戦争のため諸外国からの送金が絶え、これ以上病院を 経営することは困難であり、ライト女史にもスパイ容疑がかけられ、身辺に圧迫が加えられい るので、病院を閉鎖するより他に方法はないという結論に達した。


► 解散の日

解散の事は、患者さんへの動揺を最小限にしたいという考えから、1941年(昭和16年) 2月3日まで、伏せてあった。(その日は、リデル9年目の命日であった。)当日の目撃者で ある天野氏によると、解散の発表が有り、患者輸送用の車が出発しようとしたら、ライト先生 が、車の後ろに「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣き崩れてぶら下がった状態だったんです、 運転手はそれを知らず出発し始めたわけです。ライト先生のヒザは地面についていたように思 います。そしてハイヒ-ルが片方飛んだんですよ。飛松さんが車を止めて、後ろからライト先 生を抱きかかえたけれども、ライト先生が手を放そうとしなかったので、1本、1本指を放さ せている姿を見て、患者のために一生を捧げられた先生を、これほどまでに泣き崩れる状態を 作る神様の本当の思いやりはどこにあるのか、神様を恨みたい気持ちでした。そして門を離れ た瞬間に、車の中から賛美歌を歌いだして、それがライト先生への最後の贈り物だと思ったわ けです。と証言している。この日ライトは、愛用の「日々の光」に次のように記している。「 政府は、私から愛する病者たちを奪った。病院は、空になった。」

► オ-ストラリアへの退去

英国大使館からの退去命令により、ライトは止む得ずオ-ストラリアに退去することになった が、宮崎博士に向かい「自分はこの老齢(71才)で日本を去るのであるから、再び日本の土地 を踏むことは望めますまい。自分はどこにいても、回春病院とその患者さんのことを1日も思わ ない日はないでしょう。そして伯母の遺骨も患者さんと共に眠っているのですから、もし自分が 彼の地で世を去ることがあれば、遺骨は必ず日本におくりますから、どうぞ皆と一緒の処に眠ら せてください。」とそれだけを願われた。

► 皇太后からの手紙

昭和16年4月1日、神戸港出帆予定の東京丸船上、オ-ストラリアに退去しようとするライ ト宛に、皇太后陛下より電報が寄せられた。追われるようにして国外に退去しなければならな かった時、皇太后陛下より同情あふるる一電文は、ライトにとってなによりの慰めであった。こ の赤紙のついた電文を、ライトは終生肌身はなさず持っていた。この電報は東京丸船上のライト に対する待遇を一変させた。

► 私はパ-スの市長です

ライトは、オ-ストラリア当局に対し、日本への出国許可を繰り返し求めていたが、そのつど 却下された。「ある日ドアをノックする人があるので出てみると、見知らぬ紳士が立っていま した。ライトが、失礼ですがどなたでしょうかとたずねると、「私はパ-スの市長です。あなた は、私があなたの渡日の許可願を何度却下しても、またすぐ出願なさる。失礼ですが、ひょっと すると頭がおかしくなっておられるか、そうでなければ、よくよくの事情がおありなのかもしれ ないと思い、それを自分で確かめたいと思って参上しました。私が許可できない理由は2つです。 第一は、あなたは余りにも高齢です、そのあなたが、だれひとり身内のいない異国に、単身渡ろ うとなさるのを、そのままにできない私の気持ちは、お分かりいただけると思います。第2の理 由は日本の治安がよくないことです。一応戦争は終わりましたが、オ-ストラリアと日本はお互 いに敵として戦って参りました。日本の人達がよく思わないのは当然です。かよわい御婦人、し かもご高齢のあなたが単身敵地に乗り込んでいこうとなさるのを、市長として許可出来ません。」 ライトは、確かに私は年をとりましたけど、まだ身の回りのことは自分で出来ます。私の生き甲 斐は、日本の愛する患者さんの側で生活することです。あの方々と離れて生活することには意味 は有りません。どんなに歳を取ろうと、動けなくなろうと、私は日本に帰って土になろうと、患 者さんの所に行きたいのです。第2の理由に対しては、日本人は絶対に私に危害を加えないこと を信じています。しかし、たとえ日本に上陸第1歩で殺されたとしても満足です。そこまで言う と、市長さんは、分かりましたと言って、その場で許可をくれたそうです。

► 再来日

ライトが熊本市民の熱狂的な歓迎を受けて、熊本駅に降り立ったのは昭和 23年6月11日のことであった。このことは市民と全国のハンセン病患者だけでなく、等し く全国民に、衝撃をあたえた。 78才の高齢、しかも寄るべくもなく単身、追放を命じた国に、 ただただ愛する患者さんのもとへ、海山千里をこえて、帰って来てくれたのである。ライトを、 感動なしに迎えることは、誰にも不可能であった。


事業所一覧
小規模ユニット型介護老人福祉施設
  リデルホーム黒髪
地域密着型ユニット型介護老人福祉施設
  ノットホーム
地域密着型ユニット型介護老人福祉施設
  リデルホーム龍田
短期入所生活介護
  リデルホーム黒髪
養護老人ホーム
  ライトホーム
通所介護事業所
  ユーカリ苑
小規模多機能型居宅介護事業所
  コムーネ黒髪
グループホーム
  カムさぁ
放課後等デイサービス
  カムさぁ
熊本市高齢者支援センター
  ささえりあ浄行寺
居宅介護支援事業所
  リデルホーム
指定訪問介護事業所
  リデルホーム

季刊誌 ゆうかり新聞
平成28年9月春号
平成28年6月春号
平成28年1月冬号
平成26年9月秋号
平成26年6月夏号
平成26年3月夏号
平成25年12月夏号
平成25年9月夏号
平成25年7月夏号
平成24年10月冬号
平成24年7月夏号
平成24年4月春号
 法人概要  経営情報Ⅰ  経営情報Ⅱ  各種パンフレット  リンク
沿革 事業計画 社会貢献活動 熊本市養護老人ホーム ピネル記念病院
法人理念 事業報告 社会福祉法人減免 全国版養護老人ホーム NPO法人おーさぁ
定款 財務諸表 苦情解決体制 ピアノ修復記念誌 テクニカル工房
組織概要 役員会開催状況 苦情報告 社会福祉法人ライン工房
役員名簿 協力病院 事故報告 小笠原嘉祐
役員報酬規程 防災対策 自己評価・第三者評価
現況報告書
職場風土改革促進事業
一般事業主行動計画
職員データ